出版時(shí)間:2009/01 出版社:國(guó)書(shū)刊行會(huì) 作者:久生十蘭,江口雄輔他編
內(nèi)容概要
第二巻は『キャラコさん』&『顎十郎捕物帳』という、十蘭の代表的なシリーズ作品が二つも収録されています。代表作「ハムレット」のプロトタイプ「刺客」も収録されていますし、全集の第二巻という中途半端な形ながら、これから十蘭を読もうという人には意外とお?jiǎng)幛幛我粌?cè)じゃないでしょうか
『新版八犬伝』(1938.4)★★★★☆
――信乃は先君足利持氏の幼君春王、安王の御遺品村雨の名刀を、成氏卿に獻(xiàn)上するため、明日古河へおもむく。戦で傷を負(fù)い領(lǐng)地を姉夫婦に譲りながらも、父がこれだけは手放さなかつた重寶である。
三一版全集未収録。馬琴『南総里見(jiàn)八犬伝』の犬士集めの部分をテンポのいい文體で再話したもの。おおまかな筋は原作通りであるものの、浜路の臺(tái)詞廻しがやけに婀娜っぽかったりするところが十蘭的というか現(xiàn)代的というか。
「刺客」(1938.5~6)★★★★★
――第一の手紙「今日から伊豆の小松といふ家に秘書(shū)にまゐります」第二の手紙「思ひがけぬ事情のために、またお手紙を差し上げます。秘書(shū)とは一杯喰はされ、実は此処に住んでゐる神経病者のお相手が仕事だつたのです?!亥膝啷欹磨取护沃ゾ婴巫钪肖祟^を打ちつけて、自分をハムレツトだと思い込んでしまつた子爵なのでした」
前半はピランデルロ『エンリコ四世』にハムレットを流し込んだ翻案小説なのかな(とはいっても、佯狂問(wèn)題に『ハムレット』をあてがった時(shí)點(diǎn)でそれだけでも「勝ち」でしょう)、と思っていたのですが、途中から十蘭らしい戀愛(ài)要素やミステリ要素が強(qiáng)くなりました。
三一版全集未収録。そのための書(shū)簡(jiǎn)體であるとはいえ、個(gè)人的には最後のミステリ仕掛けが余計(jì)に思えます。それほどにピシッと締まった作品ですし、「佯狂かどうか」ではなく「誰(shuí)が××したのか」の方に問(wèn)題が移ってしまった挙句のあの仕掛けですから、ちょっと意外性を狙いすぎに思えてしまいました。
「モンテ?カルロの下著」(1938.6)★★★★☆
――リュウ?ド?リラのホテルに二人の日本のお嬢さんが住んでいた。一人はソルボンヌの理科の書(shū)生さん。もう一人はノアイユの「舳人形」を愛(ài)誦しているとりとめのないお嬢さん。通りひとつ隔てたところに住む支那琉金のやうな顔をした日本のお嬢さんが賭博館《カジノ》で卅萬(wàn)法を當(dāng)てたというものだから、ソルボンヌさんも百発百中のシステムに取り組んだ。
三一版全集未収録?!亥违螗伐浈楗蟮乐杏洝伙L(fēng)に凸凹コンビが繰り広げるユーモア小説?!秆耸证虍?dāng)てゝ、料理女が女主人に抗議をするあのポーズで」という、まざまざと絵が浮かぶ素晴らしい譬喩がありました。一歩間違えれば奇をてらっただけになりかねないのだけれど、これははまってます。
「モンテカルロの爆弾男」(1938.9)★★★☆☆
――勝負(fù)事をするはいいが、日本の名折れになるやうなことばしたら、二度とこの船に上せんぞ――。船長(zhǎng)のこの言葉に、金山は負(fù)けるわけにはいかなくなつた。
三一版全集未収録。〈モンテカルロ〉が二篇続きますが、別にシリーズものではありませんでした。カジノが舞臺(tái)ということです。わしゃあ日本男児じゃあ!的な作品です。
『キヤラコさん』
「社交室」(1939.1)★★★★★
――剛子がキヤラコの下著をきてゐるのを従姉妹たちに発見(jiàn)され、それ以來(lái)キヤラ子さんと呼ばれるヤうになつた。かくべつ不服には思はない。キヤラコの下著を別に恥だとかんがえないからである。垢じみた絹の下著をひきずりまはすよりは、サツパリとして、清潔なキヤラコを著てゐる方がよつぽどましだ。
何てかっこいいんだキャラコさんは?!附仱扦悉い螭?。木綿のやうな女でなくてはいかん」という長(zhǎng)六閣下にもしびれます。真っ直ぐなキャラコさんの「槇子がどんなに苦しんでゐたかよくわかる。それを察してあげることが出來(lái)なかつたのは、やはり、自分が未熟だからに相違ない」をはじめとしたくだり、桜庭一樹(shù)っぽい感じもするのですが。解題によれば、當(dāng)初は単発の読み切り作品の予定だったらしく、果たしてそのせいなのか、おいおいと思うくらいのハッピーエンドです。
「雪の山小屋」(1939.2)★★★★★
――いつもなら森川夫人がお転婆さんたちの世話やきと監(jiān)督にやつてくるのだが、今年は身內(nèi)が戦地へ行つてゐるから來(lái)られない。かういふ?qǐng)龊悉摔膝浈楗长丹螭税准问袱郡?。六人は雪山で出逢つた紳士に『チヤーミング?プリンス』と名をつけた?!袱趣皮馍掀筏胜巍埂袱浃洹?br />かしまし娘たちの戀愛(ài)ごっこがやがて深刻な事態(tài)をもたらすのですが、なるほどひとつ「大人」になったのだとわかるシーンにはじーんと來(lái)ました?!负韦筏诵肖膜郡?、つて?(中略)……つまり、ひと泣き、泣きに行つたのさ」だなんて、ド演歌な臺(tái)詞もあったりするのに、それを口にするのがおっさんなどではなく戀に戀する乙女たちだからこそ、胸に迫ります。
「蘆と木笛」(1939.3)★★★★★
――今年十九歳になる少女が四千萬(wàn)円の相続人になる。世界的なビツグ?ニユウスに、東京中の新聞社が狂気のやうに走り廻つてゐたため、キヤラコさんは半月ほど前から溫泉宿でとりとめのない日々を送つてゐる。宿に泊まつてゐる佐伯氏は南京の戦爭(zhēng)で失明した名譽(yù)ある傷痍軍人である。
真っ直ぐなキャラコさんが正體を偽っていた人の心を溶かす、というプロットは「社交室」と同じですが、こちらはよりミステリ仕立て。キャラコさんの親切もより具體的で、木に鈴をつけるという発想には読んでいるこちらも感動(dòng)してしまいました。漫畫(huà)などではライバル役が主人公と人気を二分したりするのもよくあることですが、このシリーズでもキャラコさんが曇りのない善人なだけに、憎まれ役たちの屈折した純粋さも光ります。キャラコさんは質(zhì)素ではあっても不幸とは縁遠(yuǎn)い人だから。長(zhǎng)六閣下の手紙の末尾を真似るキャラコさんが可愛(ài)い。
「女の手」(1939.4)★★★★★
――キヤラコさんが山道を歩いてゐたところ、四人の男がキヤラコさんをおしのけるやうな亂暴な仕方で追いぬいてゐつた。この四人の男は、じつは大學(xué)で『中性子放射』の研究をしてゐた若い科學(xué)者たちだつた。祖國(guó)の苦難に協(xié)力したくて、廃棄金山を復(fù)活させやうと申しあわせ、休みもせずに乾麺麭だけで作業(yè)をしてゐるといふのだ。
初出タイトル「虹色の旗」。限られた材料と道具だけでキャラコさんが作りあげる料理には一読の価値あり。ある意味で日常の謎ミステリの佳品です(特に○○○の使い方と伏線が)。キャラコさんのなかでも表向きの戦意高揚(yáng)的な要素が比較的強(qiáng)い作品でもありますが、でも実は巧妙な戀愛(ài)小説でもあるのではないかと。
「鴎」(1939.5,6)★★★★★
――キヤラコさんはイヴオンヌさんに誘われて、アマンドさんの快遊船《ヨット》に乗つてゐた。射撃會(huì)のことを考えると、負(fù)けることの嫌いなレエヌさんとまた競(jìng)爭(zhēng)になりさうで、気が重くなる。レエヌさんと女學(xué)校の二年まで同級(jí)だつた。カナダ人の父を亡くしてから、お金持ちの叔父さんに引きとられたのだといふ。
「赤い孔雀」と「幸福な朝」というまったく別々の二作を単行本化に當(dāng)たり改作し一本にまとめたもの。ここでキャラコさんは、自分が真っ直ぐなだけではどうにもならないことに直面します。しかも一番大事な場(chǎng)面で、心ならずもそれまでの信念を曲げてしまった。。。。キャラコさんは大金を相続したことを必ずしも幸せだとは思っていませんし、誰(shuí)にとって何が幸福なのかが問(wèn)われる作品です。それだけにオリジナルの「幸福な朝」というタイトルに、いったいどんな話だったのかが気になります。続刊には異稿も収録されるそうなので、この話も収録されることを願(yuàn)います。
「ぬすびと」(1939.8)★★★★☆
――しばらくね、というかわりに、左手を気取つたやうすで頬にあて、微笑しながら、黙つて立つてゐる。緋娑子さんを見(jiàn)たとき、キヤラコさんは、思わず眼を見(jiàn)はつた。すつかり垢抜けがして別なひとのやうだつた?!感·丹蕜猡摔悉い膜苹榧sしたから、何もかも清算しておきたいの。手紙の束を、悅二郎さんから、盜んで來(lái)てちゃうだい」
初出タイトル「盜人と懸?guī)z」。これまでの各話と比べるとドラマ性はありません。中心になるのはキャラコさんの內(nèi)面の葛藤です。むしろそれよりも、緋娑子さんの元カレ悅二郎さんの御母堂のキャラクターが強(qiáng)烈でした。キャラコさんの食いっぷりもいい。
「海の刷畫(huà)」(1939.9)★★★☆☆
――沖のはうから、金髪が泳いで來(lái)る。毎朝、時(shí)間をきめて泳いでゐるのだとみえ、「お早やう《グツド?モオニング》、お嬢つちやん《リツトル?ウイメン》」と挨拶して泳ぎ抜けてゆく。
初出タイトル「海の青年隊(duì)《ユウゲント》」。かしまし娘ふたたび登場(chǎng)。これはわりと少女探偵団といった?jī)?nèi)容だし、いかにも戦時(shí)中らしい內(nèi)容だけれど、最後のひとことがキャラコさんシリーズらしい。
「月光曲《ムウン?ライト?ソナタ》」(1939.7)★★★☆☆
――勇夫兄さま、新しい隣人はたいへんに橫暴なの。あたしは、これからお隣りの傍若夫人(あたしの灑落も捨てたもんでないでしやう?)のところへ出かけて行つて、よくうかがつてくるつもりなのです?!袱袱丹?、おるす?」とたずねますと、少年は「ボク、ひとりなの」と答えました。
キャラコさんの一人稱の書(shū)簡(jiǎn)體形式といい、少年のヘンテコな敬語(yǔ)といい、シリーズ中の異色作。言うなればキャラコさんの文體で語(yǔ)られるキャラコさんというわけですが、十蘭の文體で語(yǔ)られるキャラコさんほど魅力的でないのはご愛(ài)敬。ボクという一人稱をそのまま呼びかけにして「ボクさん」と呼びかけるセンスが獨(dú)特です。
「雁來(lái)紅《はげいとう》の家」(1939.10)★★★★★
――坂の途中に、木造建ての小さな骨董店がある。なにげなく覗いたのが癖になつて、キヤラコさんはかならずこの飾窓《シヨウ?ウインドウ》の前で足をとめる。それは、一見(jiàn)、平凡な絵だつた。長(zhǎng)椅子に十七、八の少女が掛けてゐる。その向う側(cè)に、二十五、六の青年が、おだやかな眼差しで少女の橫顔を眺めてゐる。この絵のことを考えると、キヤラコさんは、胸んところが、熱くなつたり冷たくなつたりして、妙に落ち著かなくて困るのだつた。
戦時(shí)中は制限があったであろう戀愛(ài)小説を、恩人に対する敬慕という教育的な形にすり替えた作品――だと思っていいのだろうか? そもそも『新青年』に少女小説というのが不思議な感じがするのだけれど。あれだけ優(yōu)等生なキャラコさんがときめいているというのはそれだけで大事件です。しかも青年の最後の臺(tái)詞が、からかっているとはいえロマンチック。
「馬と老人」(1939.11)★★★★☆
――「たんと喰べろ?!ⅳ铯皮氦?、ゆつくり喰べえよ」 ところで、槽の中にはたんと喰べるほどの秣ははいつてゐない。間もなく槽の底が見(jiàn)え出す。
優(yōu)しさと愛(ài)情とプライドがぶつかり合って、いい人しかいないのにうまくいかないのが哀しい。こんな行為を「肚黒い」とか「策略」とか「下心」とか書(shū)かれては、キャラコさんほど真っ直ぐでない身としては恥じ入るばかりです。
「新しき出発」(1939.12)★★★★☆
――沼間家の広い客間に、その夜、大勢(shì)のひとが集まつてゐた。中支の同恵會(huì)に參加するキヤラコさんの、新しい出発へのお祝ひと送別を兼ねた晩餐會(huì)だつた。この十一ヵ月の間にキヤラコさんが新しく懇意になつた二十人あまりのひとたちと一匹の馬。ところが、茜さんが、やつて來(lái)ない。
キャラコさんシリーズ最終話ですが、単行本版『キャラコさん』には未収録。最終話にふさわしい総キャラクター登場(chǎng)の大団円です。
『顎十郎捕物帳』
三一版全集は、リズムが大事という編集者の方針により、すらすらと読めるように獨(dú)斷でルビが振られていました。そのため同じ底本のテキストであってもずいぶんと違うところがあります。これは創(chuàng)元推理版でも同じことで、何だか騙されていたような気分になってしまいました。
読み返してみると、花世の出番がかなり少ないのが意外でした。ほかのメンバーにしても、どうもわたしの記憶のなかで勝手にキャラ立ちさせて架空の〈ファミリー〉を作りあげていたようです。言いかえるならそれだけ魅力のあるキャラクターたちではあるのですが。
「捨公方」(1940.8)★★★★☆
――「……お武家、お武家……」「あん?」と、首だけ振りむける?!い?、どうも、振るつた顔で。顔の面積の半分以上が顎になつてゐる。阿古十郎が木立を覗きこんで見(jiàn)ると、老僧が座禪を組んでいる?!鸽y儀なことをお願(yuàn)いしたいのじや……十二代將軍家慶公の御世子は……じつは雙生児」「えツ」
初出「弘化花暦」を単行本化に際して顎十郎ものに改作したもの。本篇や「稲荷の使」の冒頭のリズムが、どう読んでもすっきりせず、わたしにはよくわからない。誰(shuí)か朗読してほしい。
將軍の雙生児という大事件ながら、あっけに取られるような目安箱の盜み方や、偶然の多用、全貌が現(xiàn)れた途端に解読される暗號(hào)など、どこまでも人を食った作品です。
「稲荷の使」(1939.1)★★★★☆
――阿古十郎の叔父、北町奉行所の森川莊兵衛(wèi)にも、弱點(diǎn)がふたつある。ひとつは一人娘の花世。もうひとつは、萬(wàn)年青つくり。それが數(shù)日前から元?dú)荬胜ぁ;ㄊ坤蠠幛虺訾工?、萬(wàn)年青はしをれるし、大切な証拠物件を紛失してしまつた。
初出タイトル「稲荷の使ひ」。実質(zhì)上の第一作ということもあり、莊兵衛(wèi)、花世、ひょろ松らレギュラー陣が顔見(jiàn)せ。顎十郎の頭脳と莊兵衛(wèi)の対比、莊兵衛(wèi)の偏屈ぶりなどキャラクター紹介も兼ねた作品。
「都鳥(niǎo)」(1939.2)★★★★★
――「お聞きになつたことがあるでせう……ほら、馬の尻尾を切つて歩くといふ話。下手人が辭世の和歌を殘して腹を切つて死に、もうすつかりかたがついてしまつたんで」とひょろ松。
初出「貓屋敷」の全面改稿版。顎十郎シリーズのなかでも有數(shù)の完成度?!溉}噺」とあるとおり、ばらばらに見(jiàn)える要素から一つの真相を?qū)Г訾丹欷朦c(diǎn)、ミステリとして優(yōu)れています。都鳥(niǎo)の手がかりなどには、ホームズ譚を思わせるところもあると思います。
「鎌いたち」(1939.3)★★★☆☆
――この月のはじめから、江戸の市中に不思議な事件が起きる。どうにもとらえどころのない事件で、それだけに江戸の人士を竦みあがらせてゐる?!∫蝗栅氦膜ⅳ窑坤颏い?、続けざまに五人まで、の深く咽喉を斬られて街上に倒れてゐた。
剣の達(dá)人でも付けられない傷跡だから鎌鼬の仕業(yè)だと噂されるようになったというのに、実は珍しい流派の達(dá)人によるものだったというのでは、謎解きとしてはイマイチ。
「ねずみ」(1939.5)★★★★☆
――南番所御用部屋。藤波友衛(wèi)。とつぜん癇聲をあげて、「なんだ、今度のざまア?;⒘胸荨钉长恧辍筏扰卸à皮Δ膜饯陰ⅳ膜苼?lái)たのはどいつだ。北ではぬからずに手代の忠助をひつ撲いて、わたくしが毒を盛つたのでございますと泥を吐かしたさうな」
初出タイトル「堺屋騒動(dòng)」。江戸時(shí)代ならではのトリックです。ミステリとして読むならやはりこういう點(diǎn)が高ポイントでした。発表順に見(jiàn)ればほぼ初となる藤波と顎十郎のライバル対決が(直接対決ではないものの)見(jiàn)られますが、本文の記述からはすでに何度も対戦したらしいことが窺えるので、時(shí)系列順に収録した創(chuàng)元推理文庫(kù)版ではずいぶん後ろの方に収録されていたりもしましたね。しかしタイトルはこれでいいんでしょうか……?
「三人目」(1939.7)★★★★☆
――「清元千賀春が死にましたね。まア、卒中か、早打肩。そう言はれて見(jiàn)れば、顔も身體も、ぽつと桜色をしておりましてね。とんと死んでゐるやうには見(jiàn)えません」それを聞いた藤波は、顎十郎を叩きのめしてやらうと……。
二転三転する真相には「ユーモア」と「ミステリ」というこのシリーズの特徴がよく出ています(ブラック?ユーモアだけど)。
「紙凧」(1941.8)★★★★☆
――「……じつは、きのう金座から出た三萬(wàn)両金が、そつくり掏りかえられたんで……石船に衝きあてられたほんのちよつとしたドサクサのあひだに、掏りかえられたのにちがひない」
わりと世評(píng)は高いし、同じものを見(jiàn)ていても藤波と顎十郎では読み取る意味が違っているところなどいかにもミステリ小説的?,F(xiàn)代の現(xiàn)金ではなく、江戸の小判だからこそ成り立つトリックとその解明も、捕物帳(時(shí)代ミステリ)ならでは。
「氷獻(xiàn)上」(1941.8)★★★★☆
――「どうか、お?dú)辘颉埂袱─悉猡Αⅳ胜ぁ埂袱长欷悉礋o(wú)體。くれぬといふなら取つて見(jiàn)せる。これから追ひかけて……」本郷三丁目の有馬の湯。陸尺の寅吉が顎十郎と並んで湯につかりながら、「ご存じですか。獻(xiàn)上のお?dú)辘蛲┫浃挨毪叱证膜菩肖膜郡浃膜黏毪螭扦埂?br />真相や真犯人を指摘するだけではなく、アリバイを証明して容疑を晴らすというのが、捕物帳にしては珍しいように思います。裁判的な〈証拠〉だなんていう概念もなかった時(shí)代だっただろうに、証拠のために二回も全力疾走する顎十郎。
「丹頂の鶴」(1939.8)★★★★☆
――ここに、意外なことが出來(lái)したといふのは、ほかでもない。お上がことのほか御寵愛(ài)なされた『瑞陽(yáng)』とまうす丹頂の鶴。見(jiàn)たところ、心の臓のまうえあたりに刺傷がある。『瑞陽(yáng)』とりしらべの件につき、北と南、両人相吟味、対決をねがいあげたところ、やらせて見(jiàn)い、との仰せ。
初出タイトル「捕物御前試合」。ライバル同士がしのぎを削れば盛り上がるとはいえ、捕物吟味の御前試合ともなると、試合をする當(dāng)人たちも負(fù)けていられないだろうけれど、作者の方もあっさりとどちらかを不様に負(fù)けさせるわけにもいかないでしょう(ライバルが負(fù)けてはライバルではなくただの咬ませ犬だし、主人公が負(fù)けてしまってはそもそも名探偵でも何でもないし)?!袱幛扦郡ぁ瓜坤椁长娇赡埭剩ǎ浚﹦I理の仕方が「あっぱれ」ではありますが、その実、犯人の動(dòng)機(jī)がけっこうめちゃくちゃな気もします。
「野伏大名」(1939.10)★★★☆☆
――大身の家老かお側(cè)役といつた客は、沈思逡巡ののち「仔細(xì)は次の通り?!染摔悉郡坤窑趣辘斡兆婴ⅳ膜啤⒃创卫嗓丹蓼壬辘筏ⅳ菠蓼工?、御三歳の春、産土さまへ御參詣になりましたが、かへりの駕籠の中で失気なされ……失気したままご死亡になり、偽の主君をつくりあげたといふ風(fēng)説を耳にいたすようになりました」
なんといっても冒頭のホームズばりの名推理がみどころの作品です。謎解きには特殊な知識(shí)が必要ですが、どのみちわたしにはよくわからない江戸時(shí)代の話なのでアンフェア感はありません。江戸時(shí)代といえば、人相見(jiàn)の扱い方が時(shí)代小説ならではだと思います?,F(xiàn)代ミステリならバカミスものの伏線です(^^;。藤波がものわかりがよいせいで、ものすごく気の抜けた読後感でした。
「御代參の乗物」(1939.6)★★★★☆
――長(zhǎng)井の山とお濠と見(jiàn)附と木戸でかこまれた袋のやうな中で、十三人の腰元が乗物もろとも煙のやうに消えうせてしまつた。
初出タイトル「十三人の腰元」。人間消失に「見(jiàn)えない人」のバリエーションを応用したという點(diǎn)で、わたしのようなトリック好きには評(píng)価が高いんじゃないかと思います。神隠しを演出するサービスもたっぷりだし、神隠しの必然性も一応のところ真相で説明がつけられています。
「咸臨丸受取」(1939.4)★★★★☆
――「じつは、このごろ、妙なことがはじまつてゐるんでございます」「ふむ、妙とは、どう妙」「どうも、捕えどころのねえ話なんで……。小犯行が、これでもう十日ほどのあいだ、ただのひとつもございません」「なるほど、そりやあ珍だの」
初出タイトル「一節(jié)切」。捕物帳にしろ刑事ものにしろ、事件が起こらないことには始まらないのですから、こういう進(jìn)行形の作品は珍しい。しかも「犯罪が起こらない」から怪しいという逆説的な発端もわくわくします。さらにいえば、犯人も藤波も顎十郎もみんな頭がいいのが嬉しいですね。暗號(hào)はこれまた特殊知識(shí)といっていいようなものなのですが、単純明快なのでこれまたアンフェア感は感じませんでした。
「遠(yuǎn)島船」(1940.6)★★★☆☆
――鰹の帰り船が沖で船にあふと、最初に行きあつた船に初鰹をなげこんでやるのがきまりになつてゐる。ところが油燈がつけつぱなしになつてゐる。まるきり人影といふものがない。たるみきつた帆綱がゆらゆらと風(fēng)に揺れてゐるばかり?!袱浈?、遠(yuǎn)島船だ」「畜生、縁起でもねえ」乗り込んでみると、ただのひとりも船にゐない!
初出は『新青年』。トリック的にはこれしかないという感じですが、一見(jiàn)すると消失の難易度が高そうな囚人護(hù)送船だからこそ――の部分に綾があります。
「蕃拉布《ハンドカチフ》」(1939.11)★★★★★
――開(kāi)化五人組といはれる洋物屋の主人。毎月八日に、この長(zhǎng)崎屋で句會(huì)をひらく。たがいに識(shí)見(jiàn)を交換し、結(jié)束をかたくして攘夷派の圧迫に耐え、巨利を博さうといふ商魂志心。と、蝋燭の燈が風(fēng)にあふられて吹き消え、部屋が真暗になつた。早附木で火をともす?!袱?!」佐原屋清五郎は頸に巻きつけてゐる蕃拉布で、力まかせに頸を縊められて死んでゐた。
初出タイトル「開(kāi)化組壊滅」。開(kāi)化五人組という設(shè)定が不可欠な、不可能犯罪もの。こういうトリック、けっこう好きです。同じ手口で殺していきながら最後の最後に間接的な証拠を殘してしまう犯人と、それを指摘する顎十郎には、このシリーズにはめずらしくミステリ的な大団円の興奮を感じました。
「日高川」(1939.9)★★★☆☆
――ひよろ松と顎十郎。ひよろ松の帰郷中。界隈きつての舊家、又右衛(wèi)門(mén)の娘お小夜が摘草に行つたとき、とつぜん、ニョロニョロと山棟蛇が這ひだした。無(wú)我夢(mèng)中に投げた石が、まともに蛇の頭へあたり動(dòng)かなくなつてしまつた。その晩からお小夜は大熱、「あれ、あれ、欄間に蛇が、蛇が……」
初出タイトル「新説娘道成寺」。初出では顎十郎と藤波友衛(wèi)の道中だったそうです。その場(chǎng)面が解題に引用されてます。真相を見(jiàn)抜くきっかけが直感的ではなくちゃんと論理的なのが鮮やかです。
「菊香水」(1939.12)★★★☆☆
――高位の御人命にかゝはる事態(tài)につき、拙宅まで御光來(lái)をねがはれますれば幸甚のいたりでございます……手紙の通り來(lái)てみると、眼のさめるやうな美しい腰元がしとやかに手をつかえた?!赣盲颏Δ堡郡蓼铯辘蓼埂?br />初出タイトル「秘香詮議」。12月號(hào)掲載ということで、ひとまず一段落。とはいえ翌月1月號(hào)からも連載は続いています。ミステリとしてどうこうよりも、なんだか文章にもところどころ締まりがないのが悲しい。顎十郎による料理の注文場(chǎng)面と、利き香水のシーンが見(jiàn)どころです。
「初春貍合戦」(1940.1)★★★☆☆
――もとは、江戸一といはれた捕物の名人、仙波顎十郎も、この節(jié)はにわか駕籠屋で、その名も約めて、たゞの阿古長(zhǎng)。相棒は、九州あたりの浪人くずれで、雷土々呂進(jìn)。二三日あぶれつゞけで、もう二進(jìn)も三進(jìn)もゆかなくなつた?!袱猡罚埽?、駕籠屋さん……」闇をすかして見(jiàn)たが、人影など見(jiàn)えない?!浮瓕gは、わたしは、貍なんです」
駕籠舁になった顎十郎と、新キャラ雷土々呂進(jìn)のコンビ漫才。路線変更して顎十郎の出番が増えたことは事実ですが、ノリがよすぎてまったく別の作品みたいです。たぬきにばかされるという趣向で楽しませたいのもわかるし、最後になって「たぬき」が利いてくるのもわかるのですが、それにしても一味の行動(dòng)に必然性がありません。
「永代経」(1940.3)★★★☆☆
――淺草柳橋二丁目の京屋吉兵衛(wèi)の家から火が出、吉兵衛(wèi)は逃げだす間がなくて焼死してしまつた。吉兵衛(wèi)のとなりへ越して來(lái)たのが『大清』の藤五郎といふ男で、はじめた湯治場(chǎng)料理屋が馬鹿馬鹿しいやうな繁昌のしかた。吉兵衛(wèi)の家內(nèi)のおもんも愛(ài)想をつかして、藤五郎の店ではたらく始末。
途中までは完全にひょろ松の一人舞臺(tái)。これはこれでそのままでもよかったと思うんだけど。ひねりもそれほど利いていないし、とど助の方がひょろ松よりも鋭いのにも違和感がありますし。
「両國(guó)の大鯨」(1940.5)★★★☆☆
――阿古長(zhǎng)ととど助。この日は日ぐれがたから商売繁昌。フラフラになつて帰るところに、「待て、どこへ行く」見(jiàn)ると、これがひよろ松。酒井さまのお金蔵から七萬(wàn)六千両そつくり盜まれた。石の張抜きを被せてゆうゆうと石船のふりをしてくだつて來(lái)たが、ひよろ松だつて馬鹿じやない。ところが伏鐘と頭株の十二三人は逃げてしまつた。
初出タイトル「両國(guó)の黒鯨」?!高h(yuǎn)島船」の伏鐘一味が再び登場(chǎng)。伏鐘の逃亡と見(jiàn)世物の大鯨消失という二つの事件がきっちりかみ合っているところに妙味があります。大がかりなトリックも、困難は分割せよの基本を押さえた手堅(jiān)いもの。見(jiàn)世物を見(jiàn)る庶民の様子が面白い。楽しまなきゃ損、みたいなところが感じられます。
「金鳳釵」(1940.6)★★★★☆
――「阿古十郎さん、萬(wàn)和の金の簪の話をお聴きになりましたか」「姉娘のお梅といふのが花世の友達(dá)で、見(jiàn)たことがある」「ちやうど十二年前。山崎屋の金三郎といふ許婚が長(zhǎng)崎へ行つてしまつた。お梅はといへば、これがほんたうの戀病とでもいふンでせう、痩せほそつて死んでしまつた。ところがその二タ月後、表でチリンと音がするので見(jiàn)ると、お梅と一緒に棺に入れた簪なんです」
顎十郎シリーズのなかでも群を抜いてトリッキーな作品です。わたしなんかはこの派手さがけっこう好きですが、あるいはばかばかしいと感じる方もいるかもしれませんし、本格ミステリのトリックで「う○○たつ」というのが掟破りであるのは事実でしょう。剪燈新話をなぞったのだとはいえ、怪異を現(xiàn)実に起こしてしまう著者の心意気に打たれます。
「かごやの客」(1940.4)★★★☆☆
――江戸一の捕物名人が、開(kāi)店祝ひの祝儀酒を狙ふまでにさがつてしまつた。亭主は磨きあげた陸尺面。店の名が『かごや』といふのでも素性が知れる?!浮胜摔螂Lさう、俺の金主は藤堂さまの加代姫さま。……これ六平や、そなたは陸尺などにはもつたいない。金は出してやるから店でも持つがよい……」「黙つて聞いてりや」「一筆書(shū)いてやりやア、酌をしにいらつしやらア」あいにくと無(wú)筆ばかり。よせばいいのにとど助が買つて出た。
解題によれば実話をもとにしたとのこと。実話では犯人はお姫様だったのだそうです。ほとんど相づちを打つような役だったとど助がようやくそれなりの役どころを與えられた作品です。とど助の正體についても何だかありそうですが、けっきょくシリーズを通して明らかにされることはありませんでした。藤波が登場(chǎng)するものの、もはや役人ではない顎十郎とは“ライバル”対決となるはずもなく、別にひょろ松でもいいような素直な役どころなのが殘念です。
「小鰭の鮨」(1940.7)★★★☆☆
――先の月の中ごろから、若い娘がむやみに家出をしてそのまま行きがた知れずになつてしまう。揃ひもそろつて縹緻よし。娘が家をぬけだした時(shí)刻がだいたい似かよつてゐる。正午すぎの八ツから七ツまでのあひだ。妙といへば、妙。もひとつは、娘たちが家をぬけだすすこし前に、小鰭の鮨売が例のいい聲で呼び売りをして行つた……。
一見(jiàn)すると不可解な事件なのだけれど、実は顎十郎たちが世上を知らなかっただけというのにはがっかりです。真犯人についても、推理ではなく尾行で見(jiàn)つけるのでは優(yōu)れたミステリとは言えません。
「貓眼の男」(1940.2)★★★☆☆
――「……すみませんねえ」「やかましい、黙つて乗つておれといふのに」駕籠に乗つてゐるのは、ついこのあひだまで顎十郎の下まはりだつた神田鍋町の御用聞、ひよろりの松五郎?!笇gはね……桜場(chǎng)清六といふ道楽者。小町娘の婿になつたつもりでゐたところが、相手は結(jié)納までしたといふんだからおさまらない。生命の瀬戸際だと思へ、なんて口走る」
暗闇のなかで目指す相手だけが確実に射殺されていたという不可能犯罪です。顎十郎が説明する理屈が科學(xué)的に正しいのかどうかはよくわからないけれど、単純明快な指摘によってものごとが正反対の意味にひっくり返って見(jiàn)えるのは、ミステリの醍醐味です。発表順では駕籠舁になってからの二話目なのですが、一話二話ともちゃんと駕籠舁シーンが描かれているのがなんだか律儀でした。
「蠑蟲(chóng)原《ゐもり》」(1941.4)★★★☆☆
――「お聴きになりましたか、阿波屋の……」「……阿波屋の葬式といつたら知らぬものはない。これでもう六つ目……」アコ長(zhǎng)が桜湯を飲んでゐると、大工の清五郎があがつて來(lái)た?!浮⒉ㄎ荬稳怂坤?、じつは、あつしのせいなんで……。離家のことなんだがうなされるので調(diào)べてもらいたいといふ話。天井裏へ行きました。すると……守宮が五寸釘で胴のまんなかをぶつ通され梁に釘づけになつてゐるンです。垂木の留を打つときはづみでさうなつたんだと思ひますが……」
奇怪な連続死、何通りかに解釈できる事件、やもりの気味悪さなど、見(jiàn)どころはたくさんあるのですが、真相があまりに拍子抜けの感は否めません。
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